福山の歴史と民俗

はじめに

福山のはじまりは、縄文中期の土器が発見されているところから、遠く四千年の昔に人類が足を踏み入れていることは確かだと思う。
しかし、そんな記録や史跡はどこにも見当たらない。 古文書や北魚沼郡誌、守門村史などで明確に開拓がなされたという記録は、寛永二十年(一六四三)になっている。
周囲に温和な山をめぐらし、広大な台地(盆地)をもっている福山の集落は、木の実や獣を求めて生きて来た縄文時代の人々にも生活は出来たと思われるし、弥生時代にも人類の生活できる可能性はある。
しかし稀に見る冬の豪雪期には、そこに住むすべての生物が限界を感じただろうことも想像されるのである。
夏は素晴らしい自然の豊かさがある反面、冬は厳しい豪雪の中に埋まる。
しかも福山の地は、他の集落へ通じる道路は、すべて六キロメートルから七キロメートルの峠を越えなければならない。
その為に、この地で生きる生活の知恵として、人々は結束を強めなければならなかった。
細かい「掟」を作りこれを厳重に守らせたのである。
ヨシ、干草、ヒロミ(ミノを作る材料)などの山ノ口や、「六日代かきの禁止」などがそれである。
又家屋の建築、葬儀などは村中で手伝い。野辺送りもした。
このような相互扶助制度も確立されているのである。
しかし、昭和三十年代の後半になると、経済成長の嵐をまともに受け、炭焼きや、蚕を飼うことで生活をささえることができなかった。
典型的な出稼ぎの村になるのである。中学校を卒業するとその大半は村を離れて関東を中心に就職していく。
いわゆる昭和四十年代には「過疎地」になってしまったのである。
しかしきびしい歴史を築いてきた人々は、これにくじけず、たくましい力を発揮して村づくりに励み、遂に車道を建設し、冬期に雪上車を運行し、そして昭和五十二年には悲願の冬期道路の無雪化をも実現させたのである。

このホームページは、時代の波を最も強く受けて来た「福山」の人々の歩みを少しでも残したいとしたのが発端で、昭和五十七年に発行された、「福山の歴史と民俗」の基づいて作成しました。 先人達の記録、伝説、言い伝え、そして経験を風化させることなく、残して行き、これからの歴史と共に刻んでいきたいです。


福山の歴史

1615年 元和元年 堀円波守領分
1643年 寛永20年 土条新田として大規模な開拓が実施される。
高田藩主松平光長の命により開拓が実施された。
1674年 延宝2年 延宝の高帳の中に『福山新田』の名が出てくる。
これによると見出来二石、家数五軒、うち庄屋与十郎御関所にて無役とある。
1679年 延宝7年 七月大洪水、夏寒く大凶作となり、夏は野草を、冬はムシロまで食う。
延宝9年にも大凶作で多くの死者が出たと言う。
1681年 元和元年 松平光長が領地を没収されたので福山新田(天和の検地で改名となる)は天領となり
代官岡登次郎兵衛らの支配に移る。
1724年 享保9年 会津領所。宝暦5年(1755年)幕府直轄領。宝暦10年(1760年)高田榊原式部
大轄領所。
文久元年(1861年)会津藩が陸奥、安房二カ国のうち五万石を上知し、地代として
越後国蒲原、岩船、三島、魚沼を領した時に会津領となる。
1782年 天明2年 天明の大飢餓始まる。天明2年大洪水、江戸大地震、浅間山噴火し、天明8年まで災害が
続き、飢餓者が多く出る。
天明6年5月28日浅間山の大爆発で灰が約40cm位降る。
天明8年(1788年)までの数年管に渡る大飢餓で惨状目を覆うものがあった。
福山新田でも数軒が絶えている。
1836年 天保7年 春以来の雨で収穫皆無、常時洪水があった。
「8月29日大暴風雨あり」と記録にある。
餓死者多数、各地に暴動発生、はしかが流行した。
1839年 天保10年 9月16日各地に降雪、例外、凶作
1868年 明治元年 越後府が定められ府庁は柏崎におかれる。
西暦セイレキリャク 明治9年 戸数人口調査 福山新田72戸、420人
明治11年 10月1日福山小学校、須原校の付属校として創設、福山新田大字谷内に新築開学する。
魚沼郡が北・中・南に分かれる。
明治14年 全国各地にコレラ発生、大雪で9m以上の積雪となる。
明治17年 小村は廃止となり、須原村となる。
明治22年 渋川、東野名、西名、西名新田、福山新田が合併して上条村となる。
明治29年 魚沼地方は大洪水となり田畑は流失し、ウンカ発生、赤痢も大流行した。西名校は流れる。
明治30年 春から雨が降り続き、7月には洪水あり、冷害、ウンカの大発生で福山では収穫皆無に
近かったと記録されている。
大正2年 鎮守様の再建をする。
大正7年 豪雪となり各地に被害が出る。
大正12年 関東大震災。
須原~小出間に乗り合い自動車が通る。
大正14年 福山部落の本村に電灯が入る。
大正15年 7月大洪水となり田、畑多く流される。
特に守門岳方面に豪雨が続き高倉、栃尾方面では大水害となる。
昭和5年 記録的の浅雪となり2月1日に鎮守様の石段が雪に隠れなかった。
台風の為に薬師堂は壊れる。
昭和7年 林道=福山・西名間開通(上条峠)。
昭和8年 春から好天に恵まれ大豊作となる。
昭和9年 40年来の大雪となり最大積雪28尺を越す。*(850cmほど)
学校校庭の雪は7月1日まである。
雪消えが遅れ、天候不順で稲作は収穫皆無となり、福山新田では多くの政府米の貸付けを
受けて飢餓を乗り切る。
養蚕も桑の育ちが悪く精算できなかった。
昭和11年 豪雪で農作物、家屋に被害が出る。
林道=福山・須原間開通する。
昭和12年 7月、日華事変は始まる。
昭和15年 軍事色が強くなり、皇紀期限二千六百年祭が盛大に行われる。
福山で漢口かんらくと合わせて堤燈行列で祝う。
昭和16年 小学校が国民学校と名称が改められる。
太平洋戦争(大東亜戦争)が12月8日開始される。
昭和17年 11月只見線が開通(小出ー大白川間)
昭和19年 二分を中心に大洪水に見舞われる。12月31日集中降雪に見舞われる。
この年から上条高等小学校の雪派が福山校に併設される。
昭和20年 記録的の豪雪となり越後須原駅で6m10cmを記録する。
只見線は1月1日から4月3日まで不通となる。
8月、広島、長崎に原爆が投下され、8月1日長岡市が空襲を受け一夜にして焼ける。
(福山でも夜空が赤くなり、爆撃の音を聞く)
8月15日ポツダム宣言を受諾、終戦となる。
昭和22年 日本国憲法制定、新学制、六・三・三・四制が敷かれる。
福山小学校に上条中学校分校が併設される。
昭和24年 福山小学校の運動場改築なり(50坪)
昭和25年 谷内、熊取に電灯が点く(7月10日点灯される)
(昭和23年から電気誘致運動を展開し、地域の宿願叶う)
昭和26年 太平峠の開拓計画が進められ入植者5軒。
昭和27年 福山に上条農協の支所が開設となる。
昭和28年 9月校舎8教室を新設する。
福山の開拓道路建設計画始まる。
昭和31年 福山小学校のグラウンド狭隘につき用地を買収し拡張する。
9月須原村と上条村は合併し、守門村として発足する。
昭和32年 公衆電話が3カ所(小学校、農協支所、馬場源太郎商店)設置となる。
豪雪となり建物除雪等に混乱きたす。
10月10日に初雪があり、稲刈りが半分くらいの所に約20cm積もる。
昭和33年 太平峠開拓道路が工事完成し、福山部落に初めて農協の車が入る。
この当時の福山の人口は827人、141世帯であった。
昭和34年 記録的の浅雪で3月上旬消雪、大豊作となる。
福山小学校へテレビが入る。
昭和35年 福山簡易水道が完成する。福山僻地診療所設置される。
福山部落内の道路(幹線)整備が進む。
昭和36年 35年12月からの豪雪で12月30日~1月8日まで只見線は止まり、物資の搬出入は
「ソリ」が使われる。
9月16日第2室戸台風で、福山新田家屋40戸余り全半壊の被害を受け大混乱する。
昭和37年 福山中学校独立(上条中学校より分離独立)
福山小学校増築(新校舎4教室)工事完成
昭和38年 1月記録的の豪雪となり、約1ヶ月福山は完全に孤立する。
只見線も1月19日から2月4日(須原駅まで開通)まで不通、福山に自衛隊のヘリコ
プター救助に飛ぶ。
福山での最高積雪7mを越す。
談合山の3軒離農、江戸時代の中期から約300年の歴史を閉じる。
昭和39年 7月7日の守門岳を中心とした豪雨で西川。破間川が氾濫し、高倉、荒貫、大宿、二分は
孤立する。
6月16日「新潟地震」に見舞われ被害でる。
昭和40年 守門村は「山村復興法」の指定村となり福山開発計画も具体的に示される。
昭和41年 1月21日須原峠大清水の附近で五十嵐一郎(当時36歳)氏、雪崩の災難に遭い死亡する。
県道(須原ー栃尾線)認定となり須原宮原地区から福山に向かって改良工事開始される。
昭和42年 県道半蔵金ー入広瀬停車場線認定(福山ー西名間改良計画示される)
福山小学校の便所、給食室が増築される。
この年、旱ばつで被害でる。
福山の山振農道(下平方面)(460m、744万円)整備される。
田中角栄代議士、福山を訪れる。
昭和43年 1月中旬から豪雪型となり災害続出した(福山で2月5日の積雪6m50cm)孤立状態と
なる。
福山に雪上車配置となり谷内、熊取地区。輪番制の道路当番制度廃止となる。
福山季節保育所を開く。
昭和44年 福山中学校、須原中学校へ統合、12月1日から須原中学校の寄宿舎に入舎する。
昭和46年 8月26日国鉄只見線全通(小出ー会津若松間)
福山小学校グラウンド拡張工事完成する。
農集電話として一斉に電話が入る。
林道(福山ー談合山線工事着工)
昭和47年 記録的の暖冬異変で最高積雪1m50cm、4月上旬に消雪となる。
昭和48年 克雪管理センター完成、鉄筋コンクリート3階建、448.74平方m、
昭和47年9月16日着工、昭和48年8月10日節校竣工、総工事費2850万円
(長岡山崎組)
太平峠の開拓地跡に「太平蔬菜協業組合」が結成される。
昭和49年 豪雪となる。建物の除雪等にブルドーザーが活躍する。
4月から僻地保育所(通年制)が学校施設の一部を借りて開設される。
福山地区村民プール完成。
県道須原ー栃尾線福山側から須原に向かって工事進む。
昭和50年 冬期保安要員制度が出来て福山に4名配置される。
電話が自動化(ダイヤル式)される。(3月12日午後2時より)
昭和51年 越後須原駅舎改築される。
守門中学校建築工事着工。
自然休養村事業で楢ノ木平に「野営場」、「休憩救護所」、「休養村農道」それぞれ完成
した。
福山地区農村総合整備事業で田の圃場整備事業始まる。
昭和52年 県道半蔵金ー入広瀬停車場線の舗装改良事業進む。
今冬より部絡民の待望久しかった「無雪化」が実現し、住民は歓喜する。
県道守門ー栃尾線の谷内地域の改良進み栃尾市に通じる。
昭和53年 4月4日中学生の通学バスとして初の越後交通バス福山に入る。
中学校の通年寄宿舎廃止される。
6月26日水害で水路等に被害でる。大倉で土砂崩れ起きる。
11月3日福山小学校百周年記念式典実施、記念事業として記念誌発行、学校の環境整備
等を行う。
圃場整備継続事業で前田、丸山、下平方面実施。
県道守門ー栃尾線が主要地方道に昇格される。
昭和54年 県道半蔵金ー入広瀬停車場線、福山ー西名間を全線舗装する。
自然休養村事業で「農林産物直売店」が建設された。(農協支所が管理する)
農業基盤整備は又畑刈(長者やしき)を実施。
太平峠の登り口に「共同墓地」完成する。
福山ふるさとづくり農林水産大臣賞を受賞する。
農村総合整備関連農道(橘一郎脇から井関捨松前まで)建設工事着工。
8~9月にかけて記録的の長雨が続き農作業に被害でる。
野営場整備。
林道(又畑刈~談合山線)談合山まで通じる。
昭和55年 楢ノ木平の遊園地まで道路舗装となる。
圃場整備(住宅の中心地区字谷内、又畑刈一部)
集落の中心から谷内、熊取まで道路整備なり谷内、熊取の地区まで今冬から無雪路線と
なる。
大倉林道福山から工事進む。
君建男新潟県知事僻地訪問(9月9日)福山小学校に。
農村総合整備関連農道完成(本村裏通り)
昭和56年 1月豪雪となり1月7日未明大倉部落で大規模な表層雪崩が発生し、家屋5軒全壊し8人
死亡の大事故となる。
熊取から栃尾市へ向かって県道改良工事進む。
11月8日初雪が65cm積もり、谷内で稲刈りが終らない田があり、被害を受ける。
福山小学校の屋根葺替え終わる。



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